僕は幼い頃、演技に定評があった。
絵をひたすら書いたり、表現活動が旺盛だった僕は誰かに「なりきる」という事にも強い関心をしめしていた。
小学生のときゴジラの映画が大好きで、お爺ちゃんと映画館に見に行って外に出てくるともうまんまゴジラだった。 ひたすらギャオオーンと吠えまくり放射火炎をはいてはお爺ちゃんを焼く。そんな真似を何時間も繰り返す。 相当めんどくさいガキだっただろう。
小学一年生のときクラスの学芸会で「おたまじゃくしの101ちゃん」をやったのだが僕の役は「ザリガニの親分」だった。 その劇の悪役ラスボス的な役どころである。
「わ〜っはっはっは、今夜はカエルとオタマジャクシの親子丼だぁ〜っ わ〜っはっは!!」
僕はこの台詞を小学一年生とは思えないドスの効いたダミ声で言い切ったのだ。
誰にも教わることなくデニーロ・アプローチを習得していた僕の演技は会場の度肝を抜いたらしく、わざわざ劇が終わってから一人だけ舞台の上に上げさせられ、校長先生に
「きみ、さっきのセリフをもう一回言ってくれんかね!」といわれたくらいだったのだ。
(本来はにかみ屋さんで生粋のシャイボーイであった当時の僕は演技のスイッチが切れると照れてしまい、結局セリフをいえなかった)
その時から学校きっての演技派として鳴らしていた僕は、5年生の頃の学芸会で「おとぼけ村物語」の演技オーディションにのぞんだ。
「ごんざぶろう」という役があり、「さぁー今日こそお役人さんにはっきりさせてもらうだ!」というセリフをいう役なのだが、いかにも見た目が「ごんざぶろう」っぽいやつがいたのだ。
しかし、僕はセリフの臨場感と演技のうまさで「ごんざぶろう」役を勝ち取った。
「う〜ん、見た目がハマってる●田をとるか演技力のmasakuroyをとるか・・・悩ましいな〜」
蜷川幸雄ばりの演出へのこだわりを見せた担任先生の苦悶の表情が忘れられない。
そして6年生に上がる前の春休み、僕は引越すことになり、住んでいた町田から横浜に移り住んだ。
田舎っぽさが残る町田の郊外から都会の横浜に越してきた僕はカルチャーショックを受けた。
引越してきた当日に教室の前でいきなりケンカをはじめるやつはいるわ、クラスの半分以上が中学受験するわで、僕は軽く挫折感を覚えた。
「町田育ちの俺はこの横浜では通用しないのか・・・・クソッ! だけど俺には演技がある、演技だけは誰にも負けない!」
しかしそんな演技を披露する場は小学6年生では訪れなかった。
僕は中学校に進学し、共通の友達を介して知り合った家が近所のTと一緒に登校するようになった。
Tはそんな目立ちたがり屋ではなく、どちらかというと大人しい印象だった。
そんなTだが、なぜかあだ名は「ボス」だった。
こいつはそんなに権力を持っているのか?・・・僕は少しだけ戦慄を覚えた。
秋になり文化祭のシーズンがやってきた。
自分のクラスは何をやったか全く覚えていない。小学生のときは覚えているのに、中学生の時を覚えていないというのは、まあ大したことやってなかったからだろう。僕は隣のクラスが映画を撮影したというので見に行った。
そして映像が流れた瞬間僕は目を疑った。 なんとその映画に主演していたのは毎朝一緒に登校していたTだったのである。 しかもいじめを苦に自殺未遂をする中学生というなんとも難しい役どころだったのだ。 僕はその渾身の演技に目をうばわれた。
「負けた・・・・こいつの演技には勝てない・・・」
こうして演技をすっぱり諦めた僕は中3の文化祭では潔く裏方の大道具に回り、筋肉むきむきの彫刻の絵を書いていた。
この時、ちがうクラスだったTはまたしても劇の主役を努めていたのだ。
しかも今度はファンタジー色が強い劇で、ヒロインを抱きしめるという中学生にとっては恥ずかしく、難しいシーンも体当たりで見事に演じ切っていたのだ。
そうして時は流れ僕は大学に入学した。 色んなことにチャレンジしたいと思っていた僕は友達Sを連れて「未来のスターを探せ!原石発掘オーディション」的なものに行く事にした。
そこではNYへの転勤が決まり、彼女と痴話げんかをしたあげくNYに着いてきてくれと頼む男を演じる一幕をやった。
狩野英孝ばりのキザな感じで「俺と一緒にNYに来てくれないか?」という決め台詞を放ち、簡単な自己紹介だけしてオーディションは終了した。
その1週間後くらいに、「オーディションに合格した」という連絡が入ったのだ。
演技のレッスンを受けながらドラマ出演を目指すということだったが、受けたことだけで満足した僕はその合格を辞退して、いつものバイト生活に戻っていった。
しかしまた機会があれば、「ザリガニの親分」ばりの演技をやってみたいと密かに考えている。
Fin.
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